「はい、ではイレーネさん。お待ちしておりますね。ですが、どうかくれぐれも慌てず、落ち着いて……ゆっくりお越し下さい。……はい、では失礼いたします」チン……イレーネとの電話を終えたリカルドは顔面蒼白になっていた。「た、大変だ……! こうはしていられないぞ……!!」リカルドは部屋を飛び出すと、脱兎の如くルシアンの部屋を目指して駆け出した――****「何だって!! イレーネ嬢が今日、やってくるだって!!」書斎で仕事をしていたルシアンが驚きの声を上げる。「はい、そうなのです。たった今、私の仕事部屋に直通で電話がかかってきたのです」その言葉にルシアンの眉が上がる。「……ちょっと待て。何故、お前の部屋の電話が鳴るんだ?」そしてルシアンは自分の机の上に置かれた電話に視線を移す。「え……? それは……私が帰り際にイレーネさんに電話番号を書いたメモを渡したからですが……?」「だから、何故お前の電話番号を教える? ここにだって……電話があるじゃないか」ルシアンは自分でも良く分からないが、何故か電話がリカルドの部屋にかかってきたことが気に食わなかった。そして、ルシアンの苛立ちにピンとくるリカルド。「ルシアン様……もしかしてイレーネさんにこちらのお部屋の電話番号をお伝えしたほうがよろしかったでしょうか?」「……いや、そういうわけではないが、大体お前は俺の専属執事だろう? ここで仕事をすることが多いのだから、この部屋の電話番号を教えたほうが良かったのではないか?」「あ……言われてみれば、確かにそうでしたね。このお部屋で電話が鳴っても、出るのは私ですからね。大変失礼いたしました」リカルドはこれがルシアンの言い訳だということに気付いていたが、あえて気付かないふりをした。「あ、ああ。まぁ……そういうことだ。だが、イレーネ嬢が本日この屋敷へやって来るなら……まずは使用人全員を集めて、大事な客人が来ることを伝える必要があるな」「ええ、そうですね」頷くリカルド。「では、リカルド。早速この屋敷にいる使用人全員をホールに集めるのだ! いますぐにな!」「はい!」(そ、そんな……! ただでさえ忙しいのに……それを使用人全員をホールに集めるだなんて……!! 無茶振りだ!!)返事をしながら、心の中でリカルドが悲鳴を上げたのは言うまで無い――****一方その頃
午後4時半――イレーネは『デリア』のホームに降り立った。「う~ん……快適な汽車の旅だったわ。やっぱり二等車両は座り心地が違うわね。切符を手配してくれたリカルド様に感謝しないと」帽子をかぶり直したイレーネは、ホームに停車している汽車を見て嬉しそうに笑みを浮かべる。「でもこんな贅沢、私のような者には身の丈が合わないわね。1年後、ルシアン様と離婚したら質素倹約に励まなくちゃ」結婚生活が始まる前から、既に離婚後のことを見据えていたのだ。「さて、では行きましょう」イレーネはキャリーケースを引きずりながら、改札を目指して歩き始めた。**「う~ん……迂闊だったわ……そう言えばこの駅は階段を上らないと、外に出られなかったのよね……」じっと階段を見上げるイレーネ。手元には二つのキャリーケース。とてもイレーネの細腕では二つの荷物を持って、上ることは出来ない。「……仕方ないわ。一つ残しておいて、階段を上るしかないわね……」ため息をついたとき、背後で声をかけられた。「お困りですか? よければ荷物をお持ちしますよ?」「え?」その声に振り向くと、白髪交じりの男性駅員が立っていた。「よろしいのですか?」「ええ。ちょうど駅員室に戻るところだったので」そして男性駅員はキャリーケースを2つとも、持ったのでイレーネは慌てた。「あ、あの。一つだけで大丈夫ですので。後の一つは自分で持ちます」「いいえ、見たところ女性が持つには大きすぎる荷物ですよ。私が持つのでどうぞ階段を登って下さい」「そうですか? それではお言葉に甘えて……ご親切にありがとうございます」イレーネは礼を述べると、階段を登っていく。そこを後ろからキャリーケースを持った駅員がついていった。「荷物を運んで頂き、ありがとうございました」階段を登り終えると、イレーネは礼を述べた。「いいえ、お役に立てて良かったです」「あの……図々しいお願いとは思いますが……もう一つ、お願いしてもよろしいでしょうか?」「はい、何でしょう?」「電話をお借りしても良いでしょうか?」イレーネは恥ずかしそうに駅員に尋ねた――**** 駅を出ると、イレーネはため息をついた。「それにしても、リカルド様が電話に出られなかったのは残念だったわ……というか、何故誰も電話に出なかったのかしら……?」イレーネは何も知らなか
17時少し前に、イレーネを乗せた辻馬車がマイスター家に到着した。「お客様、マイスター家に到着しました」男性御者がイレーネに声をかけてきた。「はい、どうもありがとうございま……」そこまで言いかけて、ハタとイレーネは気付いた。(そう言えば、つい先日貴族の御令嬢に言われたばかりだったわよね……)イレーネの脳裏に赤い髪の女性……ブリジットの言葉が蘇る。『ちょっと、ここはあなたのような身分の者が気安く出入りしていい場所じゃ無いわよ? 入るなら、せめて裏口からにしたらどうなの?』(そうよね、私なんかが正面口から入ってはいけないわよね。現に昨日、このお屋敷を出るときもフードで顔を隠したくらいなのだから)「あの、お客様……どうなさいましたか?」考え事をして黙り込んでしまったイレーネに御者が遠慮がちに声をかけてきた。「いえ、何でもありません。あの、恐れ入りますが馬車を裏口に回していただけますか?」「裏口ですか? ええ、よろしいですよ。それでは裏口に周りますね」男性御者は手綱を握りしめると、馬車の移動を始めた――**** マイスター家のフットマンとして働き始めて、ようやく1年を迎えようとしていたジャックは今とても忙しかった。「全く……お使いから戻ってみれば、誰もいないんだからな……こんな一番忙しい夕方時だっていうのに。皆一体どこにいるんだよ」ブツブツ文句を言いながら、ジャックは入り口にほど近い部屋で備品の整理をしていた。「あ〜なんだ、この棚……ホコリが溜まっているなぁ。これじゃ片付けられないじゃないか」その時――「あの〜……すみません。どなたかいらっしゃいますか?」女性の声が聞こえてきたのでジャックは部屋を出た。すると入り口の前で立っている一人の女性が目に入った。その女性とは……イレーネである。「え〜と……、どちら様です?」ジャックに尋ねられたイレーネは少しだけ悩んだ。(そう言えば、この屋敷の人たちに私のことは話してあるのかしら……万一の為に、あまり詳しい話はしないほうが良いかもしれないわね)そこで、簡単な自己紹介をすることにした。「はい、私は本日よりこちらでお世話になることになりましたイレーネと申します。どうぞよろしくお願いいたします」「イレーネ……?」見たこともない女性を見て、首を傾げるジャック。(う〜ん……見たところ
イレーネとジャックは和やかに話をしながら、2人で仕事をしていた。「それでイレーネはどこから来たんだっけ?」棚の備品を片付けながらジャックが尋ねる。「はい、私は『コルト』の町から来ました」イレーネは雑巾がけをしながら答える。「『コルト』か……随分遠くから来たんだなぁ。その若さで……両親を亡くして、しかも育ててくれた祖父まで亡くすなんて……ううっ。本当にイレーネは苦労したんだなぁ……」ジャックが目をうるませる。「ええ。でも、縁あってこちらでお世話になることが出来たので、私は運が良かったです。仕事を教えてくれるジャックさんも良い人ですし」「そ、そうか? そう言われると……何だか照れくさいな」目元を赤くするジャック。そこへホールに集められた使用人たちがゾロゾロと戻ってきた。そして一人のフットマンがジャックの姿を見て近づいてきた。「おい! ジャック、お前こんなところで何してたんだよ」「え? 何って……見ての通り仕事ですけど?」「あのなぁ、さっきまでルシアン様から大事な話があって俺たち全員ホールに集められていたんだよ!」「ええ!? そうだったんですか! 俺……お使いに行ってたので知らなかったんですよ!」ジャックは自分だけホールに行かなかったことを知り、顔が青ざめる。「全く……仕方ないなぁ。でも知らなかったなら仕方ないか……ん? ところで、あんたは何者だ?」フットマンは雑巾を握りしめているイレーネに気づいた。「はい、私は今日からこちらでお世話になることが決まりましたイレーネと申します。どうぞよろしくお願いします」「イレーネ……? イレーネ……どこかで聞いたような気がする名前だが……ハハハ。まさかな」先程ホールで集められた時に、本日イレーネ・シエラという大事な客人がこの屋敷にやってくるという話をルシアンから聞かされた。だが、エプロン姿に雑巾を手にしたイレーネがその本人だとは彼は思いもしなかったのだ。「ここで俺が、新人のイレーネに仕事を教えてあげていたんですよ」ジャックが説明する。「ふ〜ん……だが、新しいメイドが来るなんて話、聞かされていなかったがな……でも、人手が足りなかったから丁度いいか。俺はフットマンのホセ。ここの部署のリーダーを務めている。よろしくな。イレーネ」「はい、よろしくお願いします」「ホセさん。イレーネの世話なら
――午後7時、ダイニングルーム。「一体どういうことだ……? 未だにイレーネ嬢が訪ねて来ないなんて……」テーブルの前に着席し、手を組んで顎を乗せたルシアンがためいきをついた。「ルシアン様……確かに私も心配でたまりませんが、まずは夕食をお召し上がりになって下さい。よくよく考えてみれば、イレーネさんは本日ここへ来るとは話されていましたが、時間までは仰っていませんでした。もしかすると、もう間もなくこちらへいらっしゃるかも……しれませんよ?」リカルドは笑顔で声をかけるも、内心では焦りがピークに達していた。(まずいまずいまずい! これは非常にまずいぞ!! ひょっとしてここへ来る道中、何かあったのではないだろうか? イレーネさんは可愛らしい外見だし、おっとりしてはいる。もっとも言い方を変えれば、世間より少しズレている感じがある。片田舎出身であるが故に、都会に潜む悪い連中に騙されて何処かへ連れ去られてしまったのではないだろうか!? そうなったら……全てこの私の責任! ああ……今にも胃に穴が空きそうだ……)少々失礼な物言いで、イレーネの身を案じる。「何かあったのではないだろうか……?」ポツリと呟くルシアンの言葉に、思わず肩が跳ねそうになるリカルド。「落ち着いて下さい、ルシアン様。まずは紅茶でも飲んでみてはいかがですか?」胃痛に耐え、震える手でリカルドはカチャカチャと紅茶を入れ……。カチャン! 手が滑ってソーサーの上に音を立ててカップを置く。そしてそんな様子をじっと見つめるルシアン。「……リカルド」「はひ? な、何でしょう?」リカルドは思わず上ずった声で返事をする。「落ち着くのは……むしろ俺よりもお前の方ではないか?」「い、いえ。何を仰っているのですか? 私はとても落ち着いておりますよ。大丈夫です、きっともうすぐイレーネさんはこちらにいらっしゃるはずですとも……あの方を信じて待ちましょう……」まるで自分に言い聞かせるかのように語るリカルド。そこへ――「ルシアン様、夕食をお持ちしました」フットマンがワゴンを押してダイニングルームへ現れた。「何? 食事だと? こんな一大事のときに食事など出来るか……え……?」眉間に皺を寄せたルシアンはフットマンを見上げ……次に驚愕で目を見開いた。 何と、フットマンの背後にはメイド服姿のイレーネがいたからだ。彼
「イレーネ嬢……」自分のテーブルの前に料理を並べていくイレーネにルシアンは頭を抑えながら声をかけた。「はい、何でしょうか? ルシアン様」スープ皿を置いたイレーネがにっこり微笑む。「一体、その恰好は……何だ?」「あ、このメイド服ですか? これは先輩のジャックさんが用意してくれたんです。素敵なメイド服で、とても気に入りました」濃紺のロングワンピースに、フリルの付いたエプロン姿のイレーネはジャックの名前を出した。自分の名前が出たジャックは、まんざらでもない様子で給仕を務めている。「い、いや。俺が尋ねているのはそういうことでは無くてだな……」「あ、ルシアン様。今置いたこちらのスープは熱いので火傷にご注意下さいね」「ああ、ありがとう……って違う! そうじゃない!」危うくイレーネのペースに巻き込まれそうになったルシアンは、激しく首を振る。「ど、どうなさったのです? 落ち着いて下さい。ルシアン様」イレーネが見つかったことで、すっかり余裕のリカルドがルシアンに声をかける。「いいか、イレーネ嬢。俺が言いたいのは、そういうことではない。何故、君がメイドとして働いているかと言う事だ。誰かにメイドとして働くようにそそのかされたのか? ひょっとして、ジャックという者の仕業か!?」ルシアンの言葉に、ビクリとジャックの肩が跳ねる。(どうか……どうか、俺がジャックだということがルシアン様にバレませんように……!)マイスター家には大勢の使用人が働いている。そしてジャックはまだこの屋敷で働き始めて1年目。当然、ルシアンはジャックの顔を知らない。「いいえ? ジャックさんは、そのような方ではありません。とても親切な人で、丁寧に仕事を教えてくれます」少し、ズレたところのあるイレーネはルシアンの質問に見当違いな返答をする。「そうか。やはりジャックの仕業なのだな? 親切にメイド服を貸してくれたというわけか?」そこへ嚙み合わない2人の会話に、リカルドが割って入ってきた。「落ち着いて下さい、ルシアン様。ジャックがそそのかしたと疑うのは時期尚早ではないでしょうか?」リカルドがルシアンを宥めながら、ジャックに早く退散するように目配せする。「で、では私はこれで失礼致します」ジャックは、逃げるようにダイニングルームを飛び出した。自分はクビになってしまうのではないかという恐
「リカルド……夜のお勤めとは……一体どういうことだ?」ルシアンが口元に笑みを浮かべながらリカルドを見る。しかし、目は少しも笑っていない。これが一番マズイ状況であるということを、リカルドは知り尽くしている。「ル、ルシアン様……こ、これはそう! 誤解、誤解なのです!」「ほう? 誤解? 一体どんな誤解なのだ? 詳しく教えて貰おうじゃないか? だがその前に……」ルシアンはイレーネに視線を移す。「イレーネ嬢」「はい、何でしょうか? ルシアン様」「もう、メイドの仕事はしなくていい。とりあえず、今日は休むといい。リカルドに客室を案内させよう」「はい、ルシアン様!」(やった! この場から逃げられる!)リカルドは喜々として返事をするが、次に告げられたリカルドの言葉に冷や水を浴びせかけられる。「いいか? イレーネ嬢を客室に案内したら、ここへ戻ってくるように。分かったか?」ジロリと睨みつけられるリカルド。「は……はい! で、ではイレーネさん。参りましょう」「はい。では失礼致します、ルシアン様」イレーネは立ち上がると、挨拶した。「ああ、明日また会おう。……リカルド」「はい! ルシアン様!」リカルドは背筋をピンと伸ばす。「……イレーネ嬢の誤解をきちんと、解くのだぞ。責任を持ってな」「も……勿論です」こうして、奇妙な動きを見せるリカルドに連れられてイレーネはダイニングルームを後にした。「……全く」ダイニングルームに1人残ったリカルドため息をつき、すっかり冷めてしまった料理を口にした。「……生ぬるいスープだ……」そして再びため息をついた――****1時間後――「ルシアン様、戻りました……」ビクビクしながらリカルドがルシアンの待ち受けるダイニングルームに戻ってきた。すっかりテーブルの上が片付けられ、今はルシアンの飲んでいるワインとグラスだけが置かれている。「ああ、戻ったか。イレーネ嬢に客室を用意したのか?」「ええ、勿論です! 前回よりも素晴らしい客室にご案内致しました! メイド長にもイレーネさんのことを伝えてまいりました。それに使用人部屋に置かれた荷物も客室へ運びました!」リカルドは説教を恐れ、媚びを売るように揉み手をしながら返事をする。「そうか……」ルシアンは手元のワインを煽るように一気に飲み干すと、乱暴にグラスを置いた。
「一体何なんだ? その募集要項は。 二十四時間体制だが、基本夜の勤務は殆ど無い? けれど夜勤が入る場合は別途給金を上乗せだとは。このような内容では誰だって勘違いするに決まっているだろう!? お前は俺を獣扱いしているのか! 一体どういうつもりでこんなことを書いたんだ!」ルシアンは肩で荒い息を吐きながらまくしたてた。「そ、それはですね。ほら、アレです。時には王侯貴族の親睦を深める目的で夜会などが開かれることがあるではありませんか?」「ああ、あるな。それがどうした?」「そうなると、結婚しているのであれば夫婦そろって出席を求められるのは当然のことですよね?」「確かにその通りだが……まさかその意味合いで二十四時間体制、時には夜勤が入ると書いたのか!?」ルシアンはワインの瓶を掴むと、勢いよくグラスに注ぐ。「はい、その通りです……」「な、何てことだ……イレーネ嬢が勘違いするのは当然じゃないか! これでは契約妻に夫婦生活を強要するような最低な男としてとられてしまったに決まっている!」ルシアンはグラスを握りしめると、まるで水のようにワインを一気に飲み干した。「落ち着いて下さい。ルシアン様、そんなに乱暴な飲み方ではお身体に障ります」「誰のせいで、落ち着けないと思っているんだ! 絶対、彼女は俺に不信感を抱いているに違いない……何がまた明日会おうだ! もう顔向けできないじゃないか……」どこまでも生真面目なルシアン。酔いがすっかり回っていた彼はリカルドにイレーネの誤解を解くように説明したことなど忘れていた。「それなら大丈夫です、ご安心ください。イレーネ嬢は決して怪しい意味合いではとらえておりませんでした。流石は私の見込んだ女性のことだけありました!」「何だと……? 一体それはどういう意味だ……?」顔を赤く染め、半分目が座っているルシアンがリカルドを見上げた。「はい、イレーネさんは夜の夫婦生活のことを想定してはいなかったのですよ。メイドとしての夜勤があるのかと思っていたのです。それで、あのようなことを尋ねられたのですよ」「そうだったのか……? そう言えば、イレーネ嬢は契約妻兼メイドの仕事をするものだと勘違いしていたな……」「ええ、そうです。なので、誤解を解くまでも無かったのですよ。何しろ初めから誤解されていたのですから」「初めから誤解だったから、誤解を
――10時半ルシアンとイレーネは、とある場所にやってきていた。「まぁ……! なんて素敵なお屋敷なのでしょう!」イレーネが目の前に建つ屋敷を見て感動の声を上げる。「芝生のお庭に、真っ白い壁に2階建ての扉付きの窓……。まぁ! あそこには花壇もあるのですね!」結局ルシアンはイレーネの言うことを聞いて、リカルドがプレゼントすると約束した空き家に連れてきていたのだ。『ミューズ』通りの1番地に建つ屋敷に……。「そ、そうか。そんなに気に入ったのか?」引きつった笑みを浮かべながらルシアンは返事をする。(くそっ……! もう、二度とこの場所には来たくはなかったのに……まさか、こんなことになるとは……! 本当にリカルドの奴め……恨むからな!)心のなかでルシアンはリカルドに文句を言う。「だ、だがイレーネ。この屋敷はもう古い。しかも郊外から少し離れているし……暮らしていくには何分不便な場所だ。家が欲しいなら、もっと買い物や駅に近い便利な場所のほうが良いのではないか? 俺が新しい家をプレゼントしよう」何としてもこの場所から引き離したいルシアン。けれど、イレーネは首を振る。「いいえ、新しい家だなんて私には勿体ない限りです。この家がいいです。だって……なんとなく生家に似ているんです。私の家もこんな風にのどかな場所に建っていました。何だか『コルト』に住んでいた頃を思い出します」「イレーネ……」ルシアンにはイレーネの姿がどことなく寂しげに見えた。しかし、次の瞬間――「それに、こんなにお庭が広いのですから畑も作れそうですしね!」イレーネは元気よくルシアンを振り返った。「な、何!? 畑だって!?」「はい、そうです。ちょうどあの花壇のお隣の土地が空いているじゃありませんか? そこを耕すのです。最初は簡単なトマトから育てるのが良いかも知れませんね。カブやズッキーニ、パセリなどは育てやすく簡単に増えます。あ、ハーブも必要ですね。バジルや、ローズマリー、それに……」(まずい! このままではまた1時間近く話しだすかもしれない!)指折り数えるイレーネにルシアンは必死で止める。「わ、分かった! そんなにここが気に入ったなら……この家を今からプレゼントしておこう。何しろ次の当主は俺に確定したようなものだからな」本当なら、出来ればこの屋敷をイレーネに渡したくなかった。何故な
「え? 今日1日、私の為に時間を割く……? 今、そう仰ったのですか?」朝食の席で、イレーネは向かい合って座るルシアンを見つめた。「ああ、そうだ。俺は無事に祖父から次期後継者にすると任命された。こんなに早く決まったのはイレーネ、君のお陰だ。あの気難しい祖父に気に入られたのだから」「ありがとうございます。でも私は何もしておりません。ただ伯爵様とおしゃべりをしてきただけですから。ルシアン様が選ばれたのは元々次期後継者に相応しい方だと伯爵様が判断したからです。それにゲオルグ様が失態を犯してしまったこともルシアン様の勝因に繋がったのだと思います」「そうか? そう言ってもらえると光栄だな」元々次期後継者に相応しいと言われ、満更でもないルシアン。「それで、イレーネ。今日は何をしたい? どこかに買い物に行きたいのであれば、連れて行ってやろう。何でも好きなものをプレゼントするぞ。臨時ボーナスとしてな」すると、食事をしていたイレーネの手が止まる。「本当に……何でもよろしいのでしょうか?」真剣な眼差しで見つめてくるイレーネ。「あ? あ、ああ……もちろんだ」(何だ? い、一体イレーネは俺に何を頼んでくるつもりなのだ……?)ルシアンはゴクリと息を呑んだ――****「お呼びでしょうか? ルシアン様」食後、書斎に戻ったルシアンはリカルドを呼び出していた。「ああ……呼んだ。何故俺がお前を呼んだのかは分かるか?」ジロリとリカルドを見るルシアン。「さ、さぁ……ですが何か、お叱りするために呼ばれたのですよね……?」「ほ〜う……中々お前は察しが良いな……」ルシアンは立ち上がると窓に近付き、外を眺めた。「ル、ルシアン様……?」「リカルド、そう言えばお前……イレーネ嬢と契約を交わした際に空き家を一軒プレゼントすると伝えてたよな?」「ええ、そうです。何しろイレーネさんは生家を手放したそうですから。ルシアン様との契約が終了すれば住む場所を無くしてしまいますよね?」「ま、まぁ確かにそうだな……」『契約が終了すれば』という言葉に何故かルシアンの胸がズキリと痛む。「そこで、私が契約終了時にルシアン様から託された屋敷をプレゼントさせていただくことにしたのです。でも、今から渡しても良いのですけ……えぇっ!? な、何故そんな恨めしそうな目で私を見るのですかぁ!?」ルシア
――22時「アハハハハ……ッ!」ルシアンの書斎にリカルドの笑い声が響き渡る。「何がおかしいんだ? 俺は50分近くもイレーネの話に付き合わされたのだぞ?」「よ、よく耐えられましたね……今までのルシアン様では考えられないことですよ。あ〜おかしい……」リカルドは余程面白かったのか、ハンカチで目頭を押さえた。「だが、そんな話はどうでもいい。問題だったのはゲオルグのことだ。祖父に呼ばれていたばかりか、イレーネと出会うとは……思いもしていなかった」腕組みするルシアン。「ええ、そうですね。でも噂に寄るとゲオルグ様は頻繁に『ヴァルト』に来ているらしいですよ。特に『クライン城』はお気に入りで訪れているそうです。あの城で働いている同僚から聞いたことがあります」「何? そうだったのか? そういう大事なことは俺に報告しろ」「ですが、ルシアン様はゲオルグ様の話になると機嫌が悪くなるではありませんか。それなのに話など出来ますか?」「そ、それでもいい。今度からゲオルグの情報は全て教えろ」「はい、承知いたしました。でも良かったではありませんか?」「何が良かったのだ?」リカルドの言葉に首を傾げるルシアン。「ええ。イレーネ様がゲオルグ様に手を付けられることが無かったことです。何しろあの方の女性癖の悪さは筋金入りですから。泣き寝入りした女性は数知れず……なんて言われていますよ?」「リカルド……お前、中々口が悪いな。……まぁ、あいつなら言われて当然か」ルシアンは苦笑する。「それだけではありません。あの方は自ら墓穴を掘ってくれました。よりにもよって賭け事が嫌いな伯爵様の前で、カジノ経営の話を持ち出すのですから。しかもマイスター家の所有する茶葉生産工場を潰してですよ!」「ず、随分興奮しているように見えるな……リカルド」「ええ、それは当然でしょう? 私は以前からあの方が嫌……苦手でしたから。その挙げ句に自分の立場も顧みず、図々……散々事業に口出しをされてきたではないですか?」「確かにそうだな」(今、リカルドのやつ……図々しいと言いかけなかったか?)若干、引き気味になりながら頷くルシアン。「ですが、これでもう次期当主はルシアン様に決定ですね。何しろ、ゲオルグ様にはルシアン様の補佐をしてもらうことにすると伯爵様がおっしゃられていたのですよね?」「ああ、そうだ。祖父
2人はソファに向かい合わせに座って話をしていた。ただし、イレーネが一方的に。「……そうそう。そこで出会った猫なのですが、毛がふわふわで頭を撫でて上げるとゴロゴロ喉を鳴らしたのですよ。あまりにも可愛くて、持っていたビスケットを分けてあげようと思ったのです。あ、ちなみにそのクッキーの味はレモン味だったのでしす。子猫にレモンなんて与えても良いのか一瞬迷いましたが、美味しそうに食べていましたわ」「そ、そうか……それは良かったな……」ルシアンは引きつった笑みを浮かべながらイレーネの話をじっと我慢して聞いていた。(いつまでイレーネの話は続くのだ? もう47分も話し続けているじゃないか……。こんなにおしゃべりなタイプだとは思わなかった……)チラリと腕時計を確認しながらルシアンは焦れていた。早く祖父との話を聞きたいのに、いつまで経ってもその話にならない。何度か話を遮ろうとは考えた。しかし、その度にメイド長の言葉が頭の中で木霊する。『自分の話をするのではなく、女性の話を先に聞いて差し上げるのです』という言葉が……。――そのとき。ボーンボーンボーン部屋に17時を告げる振り子時計の音が鳴り響いた。その時になり、初めてイレーネは我に返ったかのようにルシアンに謝罪した。「あ、いけない! 私としたことがルシアン様にお話するのが楽しくて、つい自分のことばかり話してしまいました。大変申し訳ございませんでした」「何? 俺に話をするのが楽しかったのか? それはつまり俺が聞き上手ということで良いのか?」ルシアンの顔に笑みが浮かぶ。「はい、そうですね。生まれて初めて、避暑地でリゾート気分を味わえたので、つい嬉しくて話し込んでしまいました」「そうか、そう思ってもらえたなら光栄だ。では、重要な話に入るその前に……ブリジット嬢とどのような会話をしたのだ?」ルシアンはブリジットとの会話が気になって仕方がなかったのだ。「え? ブリジット様とですか?」首を傾げるイレーネ。「ああ、そうだ。随分彼女と親しそうだったから……な……」そこまで口にしかけ、ルシアンは自分が失態を犯したことに気づいた。『女性同士の会話にあれこれ首を突っ込まれないほうがよろしいかと思います』(そうだ! メイド長にそう言われていたはずなのに……! ついブリジット嬢と交わした会話に首を突っ込もうとしてし
「イレーネ……一体どういうことなのだ? 俺よりもブリジット嬢を優先して応接室で話をしているなんて……」ルシアンはペンを握りしめながら、書類を眺めている。勿論、眺めているだけで内容など少しも頭に入ってはいないのだが。「落ち着いて下さい。ブリジット様に嫉妬している気持ちは分かりますが……」リカルドの言葉にルシアンは抗議する。「誰が嫉妬だ? 俺は嫉妬なんかしていない。イレーネが、いやな目に遭わされていないか気になるだけだ。ブリジット嬢は……その、気が強いからな……」「イレーネ様がブリジット様如きにひるまれると思ってらっしゃいますか?」「確かにイレーネは何事にも動じない、強靭な精神力を持っているな……」リカルドの言葉に同意するルシアン。「イレーネ様は良く言えばおおらか、悪く言えば図太い神経をお持ちの方です。その様なお方がブリジット様に負けるはずなどありません」メイド長が胸を張って言い切る。「た、確かにそうだな……」この3人、イレーネとブリジットに少々失礼な物言いをしていることに気づいてはいない。「だいたい、ブリジット様の対応を出来るのはこのお屋敷ではイレーネ様しかいらっしゃらないと思いますよ?」「ええ、私もそう思います、ルシアン様。本当にイレーネ様は頼りになるお方です」メイド長は笑顔で答える。「確かにそうだな……。だが、一体2人でどんな話をしていたのだろう……?」首をひねるルシアンにメイド長が忠告する。「リカルド様、女性同士の会話にあれこれ首を突っ込まれないほうがよろしいかと思います。そして自分の話をするのではなく、女性の話を先に聞いて差し上げるのです。聞き上手な男性は、とにかく女性に好かれます」「え? そうなのか?」「はい、そうです。詮索好きな男性は女性から好ましく思われません。はっきり言って好感度が下がってしまいます。逆に自分の話を良く聞いてくれる男性に女性は惹かれるのです」「わ、分かった……女性同士の会話には首を突っ込まないようにしよう。好感度を下げるわけにはいかないからな。そして女性の話を良く聞くのだな? 心得た」真面目なルシアンはメイド長の言葉をそのまんま真に受ける。イレーネとの関係が契約で結ばれているので、好感度など関係ないことをすっかり忘れているのであった。「では、私はこの辺で失礼致します。まだ仕事が残っておりま
イレーネとブリジットは2人でお茶を飲みながら応接室で話をしていた。「それにしても絵葉書を貰った時には驚いたわ。まさかルシアン様のお祖父様が暮らしているお城に滞在していたなんて」「驚かせて申し訳ございません。ですが、お友達になって下さいとお願いしておきながら自分の今居る滞在先をお伝えしておかないのは失礼かと思いましたので」ニコニコしながら答えるイレーネ。「ま、まぁそこまで丁寧に挨拶されるとは思わなかったわ。あなたって意外と礼儀正しいのね。それで? 『ヴァルト』は楽しかったのかしら?」「ええ、とても楽しかったです。とても自然が美しい場所ですし、情緒ある町並みも素敵でした。おしゃれな喫茶店も多く、是非ブリジット様とご一緒してみたいと思いました」「あら? 私のことを思い出してくれたのね?」ブリジットはまんざらでもなさそうに笑みを浮かべる。「ええ、勿論です。何しろブリジット様は素敵な洋品店に連れて行っていただいた恩人ですから」「そ、そうかしら? あなったて中々人を見る目があるわね。今日ここへ来たのは他でもないわ。実は偶然にもオペラのチケットが3枚手に入ったのよ。開催日は3か月後なのだけど、世界的に有名な歌姫が出演しているのよ。彼女の登場するオペラは大人気で半年先までチケットが手に入らないと言われているくらいなの」ブリジットがテーブルの上にチケットを置いた。「まぁ! オペラですか!? 凄いですわね! チケット拝見させていただいてもよろしいですか?」片田舎育ち、ましてや貧しい暮らしをしていたイレーネは当然オペラなど鑑賞したことはない。「ええ、いいわよ」「では失礼いたします」イレーネはチケットを手に取り、まじまじと見つめる。「『令嬢ヴィオレッタと侯爵の秘密』というオペラですか……何だか題名だけでもドキドキしてきますね」「ええ。恋愛要素がたっぷりのオペラなのよ。女性たちに大人気な小説をオペラにしたのだから、滅多なことでは手に入れられない貴重なチケットなの。これも私の家が名家だから手に入ったようなものよ」自慢気に語るブリジット。「流石は名門の御令嬢ですね」イレーネは心底感心する。「ええ、それでなのだけど……イレーネさん、一緒にこのオペラに行かない? 友人のアメリアと3人で。そのために、今日はここへ伺ったのよ」「え? 本当ですか!? ありが
「一体どういうことなのだ? ブリジット嬢には手紙を出しているのに、俺に手紙をよこさないとは……」「ああ、イレーネさん。イレーネさんにとっては、私たちよりも友情の方が大切なのでしょうか? この私がこんなにも心配しておりますのに……」ルシアンとリカルドは互いにブツブツ呟きあっている。「あ、あの〜……それでブリジット様はいかが致しましょうか? イレーネ様は今どうなっているのだと尋ねられて、強引に上がり込んでしまっているのですけど……やむを得ず、今応接室でお待ちいただいております」オロオロしながらフットマンが状況を告げる。「何ですって! 屋敷にあげてしまったのですか!?」「何故彼女をあげてしまうんだ!!」リカルドとルシアンの両方から責められるフットマン。「そ、そんなこと仰られても、私の一存でブリジット様を追い返せるはず無いではありませんか! あの方は由緒正しい伯爵家の御令嬢なのですよ!?」半分涙目になり、弁明に走るフットマン。「むぅ……言われてみれば当然だな……よし、こうなったら仕方がない。リカルド、お前がブリジット嬢の対応にあたれ」「ええ!? 何故私が!? いやですよ!」首をブンブン振るリカルド。「即答するな! 少しくらい躊躇したらどうなのだ!?」「勘弁してくださいよ。私だってブリジット様が苦手なのですよ!?」「とにかく、我々ではブリジット様は手に負えません。メイドたちも困り果てております。ルシアン様かリカルド様を出すように言っておられるのですよ!」言い合う2人に、オロオロするフットマン。「「う……」」ブリジットに名指しされたと聞かされ、ルシアンとリカルドは同時に呻く。「リカルド……」ルシアンは恨めしそうな目でリカルドを見る。「仕方ありませんね……分かりました。私が対応を……」リカルドが言いかけたとき――「ルシアン様! ご報告があります!!」突然、メイド長が開け放たれた書斎に慌てた様子で飛び込んできた。「今度は何だ? 揉め事なら、もう勘弁してくれ。ただでさえ頭を悩ませているのに」頭を抱えながらメイド長に尋ねるルシアン。「いいえ、揉め事なのではありません。お喜び下さい! イレーネ様がお戻りになられたのですよ!」「何だって! イレーネが!?」ルシアンが席を立つ。「本当ですか!?」リカルドの顔には笑みが浮かぶ。「
ゲオルグがマイスター伯爵に怒鳴られ、逃げるように城を去っていった翌日――イレーネは馬車の前に立っていた。「……本当にもう帰ってしまうのか? 寂しくなるのぉ……」外までイレーネを見送りに出ていた伯爵が残念そうにしている。「そう仰っていただけるなんて嬉しいです。けれど、お城の見学も十分させていただきましたし何よりルシアン様が待っているでしょうから。恐らく今頃私のことを心配していると思うのです」(きっとルシアン様は私が伯爵様と良い関係を築けているか心配しているはず。ゲオルグ様と伯爵様の会話の内容も報告しないと)イレーネは使命感に燃えていた。しかし、内情を知らないマイスター伯爵は彼女の本当の胸の内を知らない。「なるほど、そうか。2人の関係は良好ということの証だな。ルシアンもきっと、今頃イレーネ嬢の不在で寂しく思っているに違いない。なら、早く顔を見せてあげることだな」「はい。早くルシアン様の元に戻って、安心させてあげたいのです」勿論、これはイレーネの本心。何しろ、ルシアンを次期当主にさせる為の契約を結んでいるのだから。「何と! そこまで2人は思い合っていたのか……これは引き止めて悪いことをしたかな? だが、この様子なら安心だ。ルシアンもようやく目が覚めたのだろう。どうかこれからもルシアンのことをよろしく頼む」伯爵は笑顔でイレーネの肩をポンポンと叩く。「ええ、お任せ下さい。伯爵様。自分の役割は心得ておりますので。それではそろそろ失礼いたしますね」イレーネは丁寧に挨拶すると、伯爵に見送られて城を後にした――****一方その頃「デリア」では――「……またか……」手紙の束を前に、ルシアンがため息をつく。「また、イレーネさんからのお手紙を探しておられたのですか? ルシアン様」紅茶を淹れていたリカルドが声をかける。「い、いや! 違うぞ! と、取引先の会社からの報告書を探していたところだ!」バサバサと手紙の束を片付けるルシアン。その様子を見たリカルドが肩をすくめる。「全くルシアン様は素直になれない方ですね。正直にイレーネさんの手紙を待っていると仰っしゃればよいではありませんか? ……本当に、何故伯爵様はイレーネさんのことを教えてくださらないのでしょう……」その言葉にルシアンは反応する。「リカルド、お前まさかまた……祖父に電話を入れたのか?
書斎ではマイスター家の現当主、ジェームズ伯爵の声が響き渡っていた。「何!? 何故ゲオルグとイレーネ嬢が一緒にやってきたのだ!?」イレーネがゲオルグと共に現れたことで伯爵の驚きは隠せない。「ええ、お祖父様に会う前に『クライン』城に行っていたのですよ」肩をすくめて答えるゲオルグ。『クライン』城とは、先程イレーネとゲオルグが出会った城のことだ。「そうだったのか? だが何故、すぐにこの城に来なかったのだ? お前の為に今日は予定を空けていたのだぞ?」どこか非難めいた眼差しを送る伯爵。「申し訳ございません。実は今、新しい事業計画を立てておりまして自分の好きなあの城で構想を練っていたのですよ。お祖父様に提案するためにね」「また、くだらない事業計画では無いだろうな?」「ええ勿論です。今度こそお祖父様のお気に召すこと間違いないです」得意げにスーツのポケットから封筒を取り出すゲオルグ。一方のイレーネは先程から2人のやり取りを黙って見ていた。(お二人の話なのに、私この場にいて良いのかしら? それにしても意外だったわ。ゲオルグ様は伯爵の前では『お祖父様』と言うのね。私の前では『爺さん』と言っていたのに……)「分かった、ならその計画書とやらを出せ。一応見てやろうじゃないか」「ええ、是非御覧下さい。今度こそお祖父様の納得のいく事業だと思いますよ。確か跡継ぎになる条件には、『仕事で成功を収めた者』も含まれていましたよね?」ゲオルグはチラリとイレーネを見る。「ああ、確かにそう言ったな。跡継ぎ候補は平等に扱わなければならないから……ん? な、何だ……この事業計画書は……」伯爵の肩がブルブル震え始めた。「ええ、どうです? 素晴らしい計画書でしょう? これでマイスター伯爵家も、益々発展していくに間違いないですよ」自慢気に胸をそらすゲオルグ。しかし、得意になっている彼は気づいていない。伯爵が震えているのは怒りのためによるものだということを。「あの、伯爵様。どうされましたか?」異変に気づいたイレーネが声をかけると、伯爵は顔を上げた。「ゲオルグ……お前、この事業計画……本気で言っているのか?」怒りを抑えながら尋ねる伯爵。「ええ、勿論です。本気も本気ですよ。何しろ、次期当主の座がかかっているのですからね」すると……。「ふ……ふざけるなーっ!!」伯爵が大声